数あるブログの中から、このブログを見つけていただき有難うございます。

当ブログ管理人の「ゆのきち」と申します。

「ゆのきち」というのは、このブログ用に自称しているペンネームです。

私自身、あまり目立つのが好きではない性格なので、こうしてペンネームで名乗らせて頂き、ブログにもこれといって顔写真などは載せないスタンスでやらせてもらっています。

そんな私ですが、今現在のメインの活動は、海外サイトから商品を輸入して、日本でインターネット販売する「輸入ビジネス」というインターネットビジネスに力を入れています。

海外から輸入した商品は、主に自分のネットショップ(自社サイト)で販売しており、現在は合計で7店舗のネットショップを経営中です。

その他にも、自分で立ち上げたアパレルブランドを2つ所有していたり、あとは、それに付随するコンサルティングなどもやらせていただいています。

ビジネスの収益の方ですが、一般的なサラリーマンの方の年収以上の金額を1ヶ月に得るようなことも珍しくなくなりました。

おかげさまで、時間にもお金にも一切困ることのない生活を送ることができるようになりました。

元々このブログを始めたのは、自分がやっているビジネスのノウハウや知識をアウトプットすることで、自分の中にそれを定着させたいという考えがあったからでした。

ただ単に学ぶだけじゃなく、それを自分の言葉に置き換えて発信(アウトプット)するからこそ、その内容が自分に定着するというのは、脳科学の観点からも正しい事のようです。

ですので、当初はそれが目的でブログ運営を始めたわけですが、運営を続けていくうちに、ご縁あってビジネスパートナーの方が増えていったり、貴重な情報をこっそりと教えてくれる読者さんが現れたりと、ブログ運営自体が楽しいと思うようになっていきました。

それで、今もこうして定期的にブログの方へ記事を投稿し続けているといった感じです。

さて、ここからは、もっと私のプライベートな部分に突っ込んだ情報を書いていこうと思います。

興味があればお読みください。

(何だかんだで、かな〜り長いプロフになってしまいました。文字数にして2万文字ほど。ざっと原稿用紙50枚分です・・・。ギャンブル狂いの親父の話や、借金まみれでボロボロになってしまった私の恥ずかしい過去なども洗いざらい話しているので、別に読まなくてもOKです。笑

ゆのきちのプロフィール

改めまして、ゆのきちです。

生まれは東北地方の(ド)田舎で、現在は東京とバンコクを行き来しながら生活しているという身であり、30代前半の独身です。

基本的に、パソコン1台あればどこでも仕事ができるような仕組みを構築しているので、アフリカ大陸だろうがブラジルだろうが、どこに住もうと生きていくのには全く困りませんが、タイという国が好きなのと、タイから商品を輸入して販売する事業も展開しているので、海外の主な拠点をタイのバンコクとしています。

ただ、バンコクに頻繁に行くようになるにつれ、毎回ホテル代を払うのもバカらしくなってきたので、今現在はバンコクにコンドミニアム(いわゆるマンション)を契約していて、渡航した際はそこが住まいになっています。

今契約しているのは、こんな感じのところです↓

(こういうグレードのコンドミニアムでも、東京や大阪で借りるよりも全然コスパがいいんですよね。だからタイが好きというのもあります。)

とはいえ、ビザの関係でタイに滞在できるのは1回の渡航につき30日までなので、完全にタイに移住するまでには至っていません。

なので、東京とバンコクを行き来しながら暮らしているというわけですね。

ところが、このように生活に”ゆとり”が出てきたのも、実はほんのここ数年の事です。

それなりの経済的な成功と自由を手に入れるようになるまでの私と言えば、生まれてからずーっとお金とは縁のない人生を過ごしてきました。

むしろ、お金を理由に夢を諦めた事や、辛い思いをした事も何度もありました。

今でも思い返すと心が痛くなる時があるので、あまり過去の事は書きたくないのですが、この際なので、私の生い立ちなどを含めて書いていきたいと思います。

小学生時代

両親が会社員という家庭に生まれ育った私ですが、小学生の頃には既に両親のケンカが絶えない毎日でした。

毎朝のように、両親が怒鳴り声で罵倒しあっては、それを横目に朝食をとり、こっそりとその場を抜け出すように学校へと通学する日々でした。

子供ながらにも口論の内容を聞いていると、おおよそ、何が原因で両親がケンカをしているのかは分かりました。

それは「お金」でした。

でも、なぜお金で揉めていたのか、その当時は良く分かりませんでした。

なぜなら両親ともに朝から晩まで働いていたのを見ていたので、『会社からお給料をもらってるのに、なんでお金のことでケンカしなきゃいけないの?』というのを疑問に感じていたからです。

ただ、これは私が高校生になった後で分かった事なのですが、どうやら父親がギャンブル狂で、パチンコにお金を湯水のように散財していたようです(笑)。

自分が稼いできた給料の中でギャンブルを楽しむのならまだしも、父親のギャンブルの「資金源」は自らの給料だけにはとどまらず、母親の給料や、母親が子供(私と妹)のために貯めていた将来の教育費用までも、ギャンブルに注ぎ込むようになったのです。

さらにそれでは終わりません。

一家の「財産」を食い尽くした後は、消費者金融から借金をしてまでパチンコに打ち込んだり、私がこっそりと貯めていたお年玉でさえも勝手に持ち出してギャンブルに突っ込んでいるような有様でした。

自分の息子の貯金まで勝手に持ち出してパチンコするなんて狂ってるとしか思えません(笑)。

まあ、私の父親は紛れもなくギャンブル依存症だったという事です。。

そんな本当にどうしようもない父親でしたが、それでも自分の父親だからと完全に憎むことができない自分がいて、今思い返しても複雑な気持ちになります。

そんなこんなで、父親のギャンブルによる浪費絡みで両親は毎日のようにケンカをしていたわけですが、その頃から私は「お金」というものに縁がなかったようです。

欲しいものを買わずに我慢して貯めていたお年玉でさえ勝手に父親にふんだくられ、両親には常に「うちにはお金がないから」「うちは貧乏だから」と言われ、欲しいものもあまり買ってもらった記憶がありません。

そんな経験が原因で、「お金がないのが普通」というマインドが自分の中に形成されることになっていったのでした。

そしてこのマインドは、後々まで私を苦しめることになるのです・・・。

中学生時代

中学生になると、両親が大声で怒鳴りあいケンカするような事は、ほとんどなくなっていました。

でもそれは、決して両親が和解しあったわけではありません。

母親は父親に愛想を尽かし、何もかも諦めていたようです。

その頃はすでに、夫婦という形は”かりそめ”のもので、実質的には夫婦関係は崩壊していました。

父親と母親は家に居ても目も合わせる事なく、会話もありません。

母親が食事を作り、それを無言で「ゴトン」と父親の前に置き、父親も「いただきます」も言わずに黙々と食事をとる。

両親が「接点」を持つのは、その食事の瞬間だけでした。

そんな光景を見ていた私は、中学生ながらにも「もう修復不可能な関係だな」と感じていました。

幸いにも、父親のギャンブル依存症は少しはマシになっていたらしく、ギャンブルには相変わらず通うものの、あくまで自分の給料の中だけでやりくりできるようになっていました。(ま、それが普通なんですが。笑)

とはいえ、父親は家にお金を入れることも一切なく、私と妹は実質、母親の給料で生活していたようなものでした。

当然、お金にも余裕はありませんでしたので、相変わらず欲しいものを我慢する日々でした。

中学生ながら母親を助けるためにアルバイトでもすれば良かったんでしょうけど、その頃は野球部に所属し、休む暇もなく野球に明け暮れていたので、バイトをしてる余裕もありませんでした。

母親からは、

『部活だけは絶対に続けなさい。やると決めたものは最後までやりきらないと駄目だよ。お母さんが必死に働くから、お金の心配はしないで。』

と言われていたので、言う通りにし、ひたすら野球に打ち込ませてもらいました。

当時は時代が時代ですから、上下関係も非常に厳しく、先輩からのヤキやシゴキは日常茶飯事で、監督も鬼のように厳しかったです。

さらに練習メニューもハードで、休みは正月の3日間だけで、土日も夏休みも毎日朝から晩まで野球漬けでした。

おかげでメンタルはかなり鍛えられましたし、最後まで諦めずにやり抜く力というのも、この頃に養われたんじゃないかと思っています。

経済的に余裕がないのに、そんな環境に身を置かせてくれた母親には今でも本当に感謝しています。

高校時代

高校生になった頃には、父親がほとんど家に居なくなっていました。

どうやら他に女を作ったらしく、その女の家に上がりこむようになったようです。

さすがにそれが決定打となり、両親は離婚。

高校2年生の時に、完全に父親が家から出ていきました。

ギャンブルに溺れて、しまいには他に女まで作り、本当に救いようのないクソ親父です。

私は母親に引き取られるような形で、母親と妹と3人での生活が始まりました。

そのせいで、家計はさらに苦しくなり、母親はダブルワークを始めるようになりました。

そして、いよいよ高校卒業後の進路を本気で決めなければいけないという時期になったわけですが、私は迷わず「就職」という進路を選びます。

本当は大学に行ってスポーツ科学を学び、将来はスポーツトレーナーになりたいという夢があったのですが、家計の事は十分に理解していたので、大学に行きたいなんて切り出す事もできません。

母親にはその夢のことも一切話さず、

『勉強とか嫌いだから俺、高校卒業したら働くわ』

と伝えました。

本当は大学に行きたかったけど、勉強が嫌いだと嘘ぶき、働くことを選んだのです。

母は、
『そっか、分かった』
と言っていましたが、表情がとても悲しそうでした。

これは後で妹から聞いたことなのですが、私が『就職する』と伝えた日の晩、母は隠れて声を上げながら泣いていたそうです。

私が本当は大学に行きたいこと、母親を悲しませまいと勉強が嫌いだと嘘をついて強がったこと、その全部が母にはお見通しだったようです。

経済的な事情で息子に進学という選択を諦めさせた事に対して、母は自分自身を責めていました。

でも私は全く母を恨んでもいなければ、母が悪いとも思っていません。

全てはギャンブルに狂って子供の教育を一切放棄し、挙句の果てに女を作って家を出ていった親父のせいだと思っていますから。

・・・と、親父に対する憎しみがフツフツと湧き上がってきたので、この話はここまでにしておきます。笑

さて、そんなこんなで就職という道を選んだ私ですが、とはいえ本心では就職ということに抵抗がありました。

それは何も、働きたくないとか、大学に行って遊びたいとか、そんな単純な理由ではありません。

なぜ就職に抵抗があったかというと、友達にナメられたくなかったからです。

小さい頃から変にプライドの高い性格だった私は、高卒で就職する事で

『あいつは大学に行く学力がないから働いてるんだ』

と周りに思われてしまうのが嫌だったんです。

そこで私は、どうすれば周りからナメられずに就職という道を選べるのかを考えました。

そして、ある名案が浮かんできたんです。

それが「公務員になること」でした。

高卒とはいえ、公務員になるためには試験に合格する必要がありますから、公務員試験に受かって公務員として働けば、周りにナメられることもないだろうと思ったんです。

公務員と言っても選択肢は色々ありますが、どうせなら「倍率」が思いっきり高いところにしようと思いました。

倍率が高ければ高いほど、受かった時にカッコいいと思ったからです。笑

そこで私が志望した「就職先」は、「東京消防庁」でした。

その当時、東京消防庁の高卒枠の倍率はおよそ20倍。

100人が受けて、5人が受かるということです。

その「倍率20倍」という響きに、やたらとテンションが上がりました。

『これで受かったら、高卒で働こうと誰からも馬鹿にされないだろう』

そう考え、東京消防庁の入庁試験を受けることに決めたのです。

昔から野球で体を鍛えていたので体力に自信がありましたし、仮に本当に”合格してしまって”も、消防士としてやっていけるだけの自負はありました。

そして、その日から鬼のような勉強の日々が始まるのです・・・。

消防士を志す

消防士の試験というと、「体力試験」とかそういうのを想像されている人もいるかもしれませんが、まず何よりも「学科試験」が重要なんです。

1次試験である学科試験をパスしなければ、2次試験の体力試験や面接にも進むことはできませんので。

そして、この学科試験で受験者の数を限りなく絞り込むので、学科試験の対策が一番重要になってきます。

しかも、その学科試験の内容がこれまたクセモノでした。

「知識」と「知能」という2種類の問題があり、知識25問・知能25問の全50問という試験内容だったと記憶していますが、特に「知能」の問題がクセモノなんです。

というのは、「知識」の問題は学校で習うことを勉強すれば普通に解けるようになりますが、「知能」の方は、まるで「とんち」のような内容で、それ専門の対策勉強が必要不可欠だったんです。

興味ないかもしれませんが、インターネットを調べたらちょうど「過去問」があったのでお見せします。

まず「知識」の問題は、こんな感じの内容です。

【問題】
1575(天正3)年、織田信長が鉄砲を大量に用いた戦法で騎馬隊を中心とする武田勝頼の軍に大勝した戦いの名称として、最も妥当なのはどれか。

1. 山崎の戦い
2. 桶狭間の戦い
3. 長篠の戦い
4. 賤ケ岳の戦い
5. 小牧・長久手の戦い

この答えは「3番」だそうですが、こういう問題なら、しっかりと勉強さえすれば誰でも解けるようになると思います。

なぜならこんなのは教科書に載っていることなので、それを覚えてしまえば良いだけの話だからです。

ところが厄介な「知能」の方の問題は、こんな感じです。

【問題】
コンビニエンスストアで、8種類の具材のおにぎりが、左から一列に、梅、鮭、昆布、おかか、ツナ、明太子、高菜、いくらの順に並んでいる。隣り合った2種類を入れ替える作業を何回か繰り返した結果、左から、鮭、昆布、おかか、明太子、ツナ、いくら、高菜、梅の順になった。入れ替える最小の回数として、最も妥当なのはどれか。

1. 5 回
2. 6 回
3. 7 回
4. 8 回
5. 9 回

・・・はい?って感じじゃないですか?笑

ちなみにこの答えは5番の「9回」だそうです。あなたは解けましたか?(今の私にはもはや解けませんでした。笑)

でも、こういう「とんち」みたいな問題が25問も出題されるので、やっぱりそれ専門の対策勉強が必要不可欠なんです。

教科書を見ても、こんな答えはどこにも書いてないわけですからね。

ということで、この「知能」の問題に対応するため、鬼のような勉強の日々に突入します。

ちなみに東京消防庁の入庁試験には、「3類(高卒)」「2類(短大卒)」「1類(大卒)」という3つの区分があります。

高卒の人が受けられるのは「3類」の試験なのですが、3類の受験資格は「18歳〜28歳」までであり、勉強に勉強を重ねた「大人たち」とも戦わねばなりません。

というのも、「消防士の試験に合格するための専門学校」みたいなのもあって、専門講師のもとで朝から晩までひたすら受験対策勉強をしているような人たちもライバルになるのです。

若干18歳、高校3年生の私は、そんな「ガチ勢の大人たち」と同じフィールドで戦う必要があったわけで、それはもう、猛勉強するしかありませんでした。

ただでさえ、「とんち」みたいな問題も出題されるわけですし・・・。

しかし何と言っても、試験まで残り5ヶ月しか時間がありません。

試験対策の専門学校に通い、年単位でひたすら”それだけ”を勉強しているような人たちと戦わねばならないのに、です。

日中は普通に高校に通い、放課後は部活動に参加し、その空き時間で勉強しなければならないのに、残された時間は5ヶ月だけでした。

明らかに無謀な挑戦だとは思っていましたが、「ハードルが高いほど乗り越えた時にカッコいいじゃん?」と自分に問いかけると、不安よりもワクワクの方が強いことに気づきました。

世間を知らない若造ゆえの、根拠のない自信がそこにありました。笑

睡眠時間を極限まで削り、若さを武器に寝る間も惜しんで勉強する日々。

朝4時に起きて勉強し、部活が終わって学校から帰ったら12時を回るまでひたすら試験対策。

寝落ちしそうになった時は、尖らせた鉛筆を指にブッ刺して強制的に目を覚まさせるという荒業も駆使しながら勉強していました。

睡眠不足で倒れるのが先か、無事に試験日を迎えられるのが先か、そんなギリギリの瀬戸際で戦っていました。

それでも何とか試験日を迎え、全てを出し尽くし・・・。

なんと、奇跡的に東京消防庁へ合格する事ができたのでした。

母親は泣いて喜んでくれました。

担任の先生はびっくりしていました。

ところが・・・。

合格した直後は嬉しかったものの、次第に、その嬉しさも「後悔」に変わっていくことになるのです・・・。

消防士になんてなりたくない

奇跡的に東京消防庁へ合格し、晴れて高校卒業後の「進路」が決まった私ですが、高校の卒業式を迎える頃には、消防士にはなりたくないと思うようになっていました。

まあ、それも当然と言えば当然で、もともと消防士の道を選んだのは、決して「消防士になって人命救助をしたい」という崇高な思いがあったからではありません。

経済的な事情で進学できないなら、せめて倍率の高い就職先に受かる事で、周りから馬鹿にされないようにしたいという不純な理由だったからです。

「受かった」という事実が得られた私は、別に東京消防庁への就職を自ら辞退して、地元の企業に就職しても何の問題もありませんでした。

なぜなら、もはやどこに就職しようと、「あいつは学力がないから高卒で働いてるんだ」というレッテルを貼られることもないからです。

どこに就職しても、倍率の高い試験に受かったという事実は変わらないわけですから。

それに、地元で働くという生活に魅力を感じ始めた自分がいたんです。

仲の良かった友達の何人かはそのまま地元で就職という道を選んだこともあり、仕事終わりに一緒に飲みに行ったり、休日は車で海やBBQに出かけたりと、そういう青春を楽しみたいと思うようになりました。

ただ、消防士を辞退しようと思った何よりの決定打は、「髪型」でした。

これは東京消防庁に内定した後に分かったことなのですが、この組織は特に髪型に厳しいところで、男性は「角刈り」がほぼ強制です。

坊主じゃなくて角刈りですよ?笑

100歩譲って坊主ならまだしも、18歳でおしゃれを楽しみたい私にとって、「角刈り」というのは、あまりにも残酷な試練でした。

火災現場で防護服から髪の毛がはみ出ると非常に危険ということから、男性は超短髪(若手は角刈り)というのが、東京消防庁のルールなんです。

それなら角刈りにせず坊主にしてしまった方がマシでは?と思うかもしれませんが、坊主はダメなのです。

どこまで行っても「角刈り」じゃないといけないのです。

なぜかというと、坊主にしてしまうと都民の方に”威圧感”を与えてしまうから、というものでした。(東京消防庁は地方公務員にあたるので、都民の税金が給料になるため、いわば都民全員がお客様という体質の組織なんです・・・)

特に強面の人が坊主にしてしまうと、より怖さが増しますからね。。

別に消防士になりわけでもなんでもなく、「試験に受かる」ということだけが目標だった私にとって、わざわざ「角刈り」にしてまで消防士になる理由などありませんでした。

さすがに角刈りは耐えられないと思い、『俺、消防を蹴って地元で働くわ』と母に伝えました。

ところが、強烈に反対されてしまったのです。

母の言い分は、こうでした。

『親元を離れて東京で一人暮らしを経験しなさい。それがあなたの成長になるから。いつまでも親元で甘えるのは許しません。』

母には、ずっと感謝してきましたので、さすがにこう言われると反発できませんでした。

こうして、嫌々ながら東京へと旅立ち、消防士として働くことになりました・・・。

憂鬱な日々

高校を卒業した私は、消防士として社会人デビューしました。

ただ、消防士になったといっても、いきなり消防署に配属されるわけではありません。

最初の半年間は「消防学校」という全寮制の学校で、訓練をしたりして消防士としての基礎を培うことになります。

「学校」とは名ばかりで、世間一般の学校とは全く別物であり、「訓練所」みたいなものです。

当然、授業料は一切かからず、むしろ消防学校で訓練をしている期間も、普通に給料が出ます。

そして、ここでの生活は私にとって地獄でした・・・。

まず強制的に「角刈り」にさせられます。

この組織は角刈りにするのがルールなのは前述した通りですが、消防学校に入るとともに、早速角刈りにさせられるのです。

消防学校内に指定の「床屋」が入っているので、そこに半ば強制的に連れていかれ、髪の毛を刈られました。

そして、消防学校での生活の方ですが、ここでは団体行動を学ぶために、6人1部屋で半年間の共同生活を送らなければなりません。

しかも、とにかく色々なルールが厳しかったです。

ここでは書けないことばかりですが、まさに「軍隊」の世界でした。

平日は一切外出できませんし、土日は外出できるものの、外出届や外泊届という書類をしっかりと書いて提出しないと外出すらさせてもらえません。

携帯電話が使える時間とスペースも限られており、仕事(訓練)が終わった後のわずかな時間だけ、決められた共有スペースでのみ、携帯電話で連絡を取ることができました。

「角刈り」の集団が一箇所に集まって携帯電話(当時はガラケーでした)をポチポチしたり、通話している姿は、まさに異様でした。笑

他にも細かいルール(制約)は色々ありましたが、一言で言うなら「自由ゼロ」の職場でした。

一つ一つの行動から、生活リズムまで細かく「統制」され、不純な動機で消防士に”なってしまった”私にとっては、本当に地獄の日々だったんです。

しかし、唯一の「救い」もありました。

それは「給料」です。

公務員というだけあって、給料は悪くなかったと思います。

消防学校に通っているとはいえ、仕事(訓練)をしているので、普通に給料も満額が支給されるのですが、確か「手取り22万円」ほどの給料だったと記憶しています。

高卒の18歳がもらえる給料としては、なかなかの水準だとは思いませんか?

しかも、ボーナスまでしっかりと支給されました。

消防学校に入ったのが4月1日で、そこから2ヶ月後の6月末には、すでに夏のボーナスが支給されました。

ボーナスの額は「60万円」くらいだったのを覚えています。

入って2ヶ月しか経ってないペーペーの18歳の「新入社員」でも、給料2ヶ月分以上のボーナスをもらえるわけですから、公務員って凄いなあとつくづく思います。

さて、今までの人生でお金というお金をもらったことがなかった私は、「給料」というのは「生活費」ではなく、むしろ「大金」という風にしか映りませんでした。

それまでの私を振り返ると、物心がついたときから高校を卒業するまで、本当にお金には縁がなかったからです。

もちろん社会人になる前なので、大したお金を持っていないのが普通ではありますが、せっかく貯めていたお年玉を親父に勝手にギャンブルに使われたり、両親が常に『お金がない』が口癖でお小遣いもほとんどもらったことがなかったので、そう考えると「20万円」ほどの給料は、生活費という次元ではなく、まさに「大金」と言うにふさわしかったんです。

しかも消防学校での日々の訓練はハードで忙しく、平日の夜は外出できませんから、お金を使う暇もありません。

当然のごとく、お金はどんどん貯まっていきました。

でも、今まで自分の「全財産」が「1万円」を超えたこともなかったような18歳の少年が、銀行口座の残高が20万、40万、60万と増えていく様子を見るのは、違和感しかありませんでした。

『お金がなくて当然』というマインドが、幼少期の家庭環境のせいでずっと自分の中にこびりついていたからです。

そして、そのようなお金に対する偏ったマインドが、自分をとある行動へと駆り立てていきました。

お金を湯水のごとく使い始める

消防学校に入ってから、すでに3ヶ月ほどが経っていました。

その頃には給料日を3回迎え、夏のボーナスも支給されたこともあり、銀行口座の残高は80万円ほどになっていたと記憶しています。

今までずっとお金に縁がなく、1万円以上のお金さえ持ったことがなかった私にとって80万円という金額は未知の世界でした。

それと同時に、「罪悪感」みたいなものが芽生えてきたのです。

『自分がこんなにお金を持っていてはいけない』

と。

もちろん、しっかりと仕事(訓練)に従事し、その対価としてもらった給料ではありますが、80万円という「大金」を自分が持っていてはいけないと感じるようになっていったのです。

『お金がなくて当然』という幼少期から刻まれてきたマインドが、『お金を持ってはイケナイ』と自分に思わせ始めたのでしょう。

そして、ついに『散財』を始めるようになります。

『こんな大金、自分が持っていてはダメなんだ』

そういう謎の強迫観念のようなものに駆られ、お金を湯水のように使い、銀行口座の残高を”意図的に”減らすような行動に出るようになったのです。

どうやって散財したかというと、あまり大きな声では言えることではないのですが、、、

18歳なのにキャバクラに入り浸っては高い酒を飲んだりして、散財していました。(18歳で酒を飲むという悪い子ちゃんです、ごめんなさい!でも当時は時代が時代なのか、年齢確認などもされずに普通に飲ませてくれました。)

が、さんざんキャバクラで散財した割には、別に私はそこまでキャバクラが好きというわけでもありません。(とは言っても女性は好きですが。笑)

キャバクラが好きというよりも、『こんなに自分がお金を持っていてはいけない』という謎の強迫観念が自分を突き動かし、そのお金を使う対象がたまたまキャバクラなだけだったような気がします。

ちまちまとした買い物をするよりも、キャバクラに通った方が豪快にお金は減っていきますから。

まあ、人によってはギャンブルに走って散財するようなケースもあるかもしれませんが、私はギャンブルだけは絶対にやらないと決めていました。

ギャンブルに溺れて家を出ていった親父が大っ嫌いだったからです。

そう考えると、やはり「散財の対象」はキャバクラに向けられたのでした。

ただ、通っているうちにキャバクラを「楽しい」と思うようになった自分もいたりして(笑)、結局、あっという間に貯金は「すっからかん」になります。

ついこの前まで80万円の貯金があったのが嘘のようです。

でも私は全くそれを気にしていませんでした。

なぜなら、「お金を持っていてはイケナイ」というマインドが根底に染み付いていたので、貯金は増えなくていいと思っていたからです。

それに、次の給料日が来ればまた20万円ほどのお金が入ってきますし、20万円というのは散財しない限りは余裕で1ヶ月を過ごせる金額だと思ったからです。(消防学校は全寮制なので家賃はかかりませんし、日々の食事も、3食無料で食べることができます。)

そんなこんなで、給料が入ったらギリギリまで使い込むという生活を続け、ついに消防学校卒業の時がやってきました。

消防学校を卒業すると実際に消防署へと配属となるのですが、その消防署も寮があって家賃もかかりませんし、給料も毎月しっかり出るので、貯金はゼロ円でしたが、不安も一切ありませんでした。

何よりまだ18歳なので、世間的に見ても貯金なんてなくて普通だと思っていましたから。

ただ、お金うんぬんの話ではなく、その頃にはすでに『消防をやめたい』という事しか頭にありませんでした。

もともと、嫌々ながら消防士として上京したわけですが、実際に消防士として働くことになっても、その気持ちは変わることはありませんでした。

実家を出て上京する時、母は私に『今は嫌でも実際に訓練とか頑張ってみたら、消防士にやりがいを感じるようになるんじゃない?』と言っていましたが、私の気持ちは一切変わりませんでした。

非常にくだらない理由ですが、何より「角刈り」が嫌だったんです。

18歳でおしゃれを楽しみたい年頃ですし、高校時代の友達が進学で上京してきて、茶髪のロングヘアでおしゃれをしてBBQや海に出かけてナンパしたりしながら青春を楽しんでいるのを見ていると、私もそういう青春を謳歌したいという気持ちでいっぱいになりました。
(その当時2007年ごろは、まさにロン毛ブームで、茶髪や金髪に染めて、えりあしを伸ばすというヘアスタイルが大流行していた時代でした。分かる人は分かると思います。笑)

そこで、私は自ら行動を起こすことにしました。

消防士として活動しながら、休みの日に転職活動をし、民間企業へと転職してやろうと思い立ったのです。

消防士のかたわらで転職活動

消防署に配属され、本格的に消防士として活動することになった私ですが、休みの日はもっぱら、タウンワークなどの求人誌を読み漁り、転職先の民間企業を探しました。

私が転職先に求めた条件は、「髪型自由」(笑)、「社宅(寮)有り」の2つでした。

正直、給料なんてどうでも良かったんです。

お金よりも、とにかく青春を無駄にしたくないという気持ちで一杯だったので、髪型が自由で、なおかつ寮を用意してくれるところであれば十分でした。

「寮」があるところを選んだのは、貯金が無かったからです。笑

18歳ながらに色々調べたところ、東京でアパートを借りるにも初期費用がある程度必要だということが分かり、それなら寮を用意してくれる会社で働こうと思ったわけです。

その頃にはすでに、母の反対を押し切って転職する覚悟でしたので、消防をやめて実家に戻る気もありませんでした。

それに何より東京の楽しさに気づいた自分もいたので、そのまま東京に残ると決めていました。

で、結論から言うと、転職先は割と簡単に見つかりました。

都内のIT系の会社で、そこでエンジニアとして働くことになりました。

もちろん、エンジニアとしての知識はゼロですが、研修期間があるということだったので、それなら大丈夫だろうと思ったんです。

面接の際、私が現役の消防士だと告げると、『条件のいい公務員からどうして転職なんてするの?』と驚かれましたが、そこは適当に『実は昔からエンジニアになりたいという夢があって、消防士になってみても、やはりその夢を諦めきれない自分がいたんです。』と、適当にウソをついてかわしておきました。笑

『角刈りが嫌だからです。』なんて言ったら採用してくれるわけもないと思ったからです。笑

そうして、就職先が決まった後に、母に「事後報告」という形で消防をやめることを伝えました。

母は電話越しに泣いていましたが、『俺の人生だから』と電話をブチっと切り、何だか母に申し訳ない気持ちになりながらも、「サラリーマン」として第二の人生を歩むことになったのです。

サラリーマンとしての日々

サラリーマンとして働きだした当初は、本当に毎日が天国でした。

消防時代のように厳しい教官や上司、先輩もいなければ、外出するために外出届を出す必要もありません。

角刈りだった髪もすっかりと伸び、原宿の美容室に通ったりしてオシャレを楽しみました。笑

土日は、進学で上京している高校時代の友人たちと遊び、社会人ではあるものの、大学生みたいな青春の楽しみ方ができました。

給料は手取りで13万円ほどでしたが、寮に住んでいたので家賃はかからず、贅沢はできませんが普通に生活することはできました。

消防の頃より収入は下がっても、自由に遊べるようになったので、私にとってはこの生活の方が普通に幸せでしたし、満足していました。

ですが、楽しい日々というのはあっという間に過ぎ去るものです。

気づけばそんな生活も、2年、3年と経ち、大学に通う友達も就職活動を始めるようになります。

良い大学に通う友達なんかは、給料も良くてブランド力もある大手企業に内定し始めたりして、だんだん、私に「焦り」が出始めてきました。

というのも、サラリーマンとして働いていてはいるものの、私が勤めているのは誰も知らないような超零細企業ですし、3年働いても給料は5000円しかアップしていないからです。

しかもこれから大きな昇給がある見込みもありません。

そんな現実に対して、私はコンプレックスを抱くようになっていったのです。

『このまま高卒サラリーマンとして安月給でコキ使われる人生で一生を終えていかなければならないのか』

と。

そう考えると、とたんに自分の事が嫌になってきました。

もとをたどれば、高校卒業後の進路を決めるときも、私は他人の「見てくれ」を気にしていました。

高卒で働くという事で周りからナメられたくないが為だけに、別になりたくもない消防士の道を選んだりと、結局は他者からの評価の中に自分の価値観を置いていたんだと思います。
(この文章を書いている今現在こそ、他人の評価を気にする事は全くなくなりましたが、当時は他人の評価を基準に生きていたので、随分と自分で自分を苦しめていたように思います・・・。他人に認められない自分には価値がないというマインドでしたから、”自分の人生”ではなく、”他人の人生”を生きていたようなものでした・・・。)

と、話を戻しますが、何にせよ、当時はそんな価値観だったので、周りの友達が良い就職先に続々と内定していく中、自分だけが安月給のサラリーマンでいることに、非常に大きなコンプレックスを感じるようになりました。

そして、そのコンプレックスを解消するために、私は行動することにしました。

それは「起業」です。

起業を志す

私は22歳になっていました。

高卒ですでに転職歴さえついてしまっていた22歳の私が、周りの大卒の友達をブチ抜くためには、「起業して社長になる」という選択肢しか考えられませんでした。

高卒なので、いわゆるホワイトカラー的な大手企業に勤めるのも無理ですし、かといって、今から学費を貯めて大学に入り直して・・・というのも現実的ではないと思ったからです。

なので、残された選択肢は起業しかありませんでした。

今振り返っても、つくづく他人からの評価ばかり気にして生きてきたんだなあと思います。汗

高校を卒業するときは、他人からナメれないために消防士という道を選びましたし、今回も結局は、他人に足元を見られたくないという動機で一発逆転を狙い、起業という道を選んだのですから。(とはいえ、おかげさまで今は非常に充実した人生が送れているので、そういう選択をして良かったなとは思っています。)

さて、そんなこんなで起業という道を選び、早くも行動に移しました。

実際に会社に辞表を叩きつけ、その当時、ブームになっていたとある商品を販売する代理店として会社を立ち上げ、文字通り独立起業したのです。

でも、人生はそんなに甘くありませんでした。

人生で初めての大失敗、挫折・・・

結論から言えば、この1回目の起業は大失敗に終わりました。

まあ、これは当然と言えば当然で、完全に見切り発車での起業で、ほぼノープランでの起業でしたから、上手くいくはずもありませんでした。

『俺ならなんでもできる』という根拠のない自信はあったのですが、現実はそんなに甘くありません。

しかも、ただの失敗ではなく「大失敗」と書いた通り、それはもう酷い失敗の仕方で、300万円を超える借金を抱え、借金返済の滞納も繰り返すようになり、ついには信販会社のブラックリストに乗ってしまい、クレジットカードも一切作れなくなりました。
(なぜそんな借金を抱え、無様に失敗してしまったのか、その背景には非常に恥ずかしい話がてんこ盛りなので、また機会があれば話させてください。ここには書けないので省略させてもらいます、ごめんなさい。)

さて、その時の私は完全に『人生詰んだ』と思いました。

学歴もなければ、貯金もなし、それどころか23歳にして早くも退職歴が2回、おまけにクレジットカードの審査すら通らない。

残ったのは、300万円という借金だけでした。

ここで人生初めての挫折を味わいます。

当時付き合っていた彼女からも、あっさりとフラれました。

心もズタズタで、頼るものもありませんでした。

冗談抜きで、「自殺」を考えたのもこの頃です。

もともと昔から変にプライドの高かった私は、『こんなブザマな姿で生き恥を晒すなら、死んだ方がマシだ』と思っていましたから。

京王線の駅のホームから飛び降りてしまおうと何度も考えました。

でも、そんな精神状況の中で思ったんです。

『どうせ死ぬなら、もう一回死ぬ気でチャレンジして、そのチャレンジの中で過労死した方がマシだろう』

と。

本当の意味で『死』を意識すると、色んなものが吹っ切れるようです。

抱えた借金を返していく必要があったわけですが、学歴もスキルも何もない私が普通にサラリーマンとして返せる金額ではないと思っていました。

だから、死に物狂いで働くしかなかったわけですが、「どうせ死ぬくらいなら」と、もう一度、「起業」で再起しようと決意したんです。

一度は死を覚悟した身ですから、もう失敗も怖くありません。

駅のホームに飛び降りて死ぬくらいなら、また起業にチャレンジして死ぬほど努力して、その中で過労死してやろうと思いました。

極端な話ですが、私の将来の行く末は「過労死か」「成功するか」の2択でした。

そのくらいの覚悟だったということです。

そして、過労死するのか、成功するのか、私としては「どっちでもいい」とすら思っていました。

もちろん成功できれば御の字ですが、成功せずに夢半ば過労死したとしても、ブザマな人生におさらばできることになるので、本当にどっちでも良かったんです。

この考えには共感できないかもしれませんが、私としては本当にそのくらいの覚悟でしたし、すでに一度は「死んだ身」のつもりでしたから。

まあ、何はともあれ、次のチャレンジを起こすことにしたのです。

そして私が再起をかけて選んだ復活の手段が、インターネットビジネスでした。

ネットビジネスで再起をかけた挑戦

ここまでかなり長い回想シーンでしたが、ようやくここから今の私の本職であるネットビジネスの話ができそうです。笑

さて、当時の私はネットビジネスで再起をかけた挑戦をするわけですが、私が最初に選んだのは「輸入ビジネス」というビジネスでした。

海外からインターネットで商品を仕入れて、国内のネットオークションやネットショップなどで販売するビジネスですね。

日中は生活費を稼ぐためにアルバイトをしながら、空いた時間で輸入ビジネスに挑んだ私ですが、最初のうちはそこそこ稼げました。

そこそこと言っても、月収にして5万円とかそのくらいでしたが、一番最初の起業で1円の売上も上げることができず、借金まみれになってしまったことを考えれば、たとえ5万円という金額でも、自分で稼げるようになっただけ大きな成長でした。

ところが・・・。

すぐに5万円を稼げるようになったものの、そこから収入が全然伸びていかない日々に突入します。

でもその原因は明確でした。

単純に、「資金」が無かったからです。

基本、輸入ビジネスで稼げる収入というのは、資金量に大きく依存します。

なぜなら、資金額によって、仕入れられる商品の量が決まってくるからです。

当然、資金があればあるほど、多くの商品を仕入れられるので収入も伸ばせますが、資金がなければ仕入れられる商品の量も限定されるので、結局は資金量次第で収入の上限は決まってしまうのです。

私は日々、借金を返しながらも、何とか工面できたわずかな資金を元手に輸入ビジネスに取り組んでいました。

ところが、そのようなスズメの涙のような資金では大した商品を仕入れられず、結果的に得られる収入も「その程度」だったんです。

クレジットカードが作れる人であれば、クレカの「与信枠」を利用することで、手持ち資金(現金)が無くても稼いでいくことができますが、私の場合、クレカを作ることができなかったので、「デビットカード」で仕入れを行なっていました。

デビットカードとは、その口座の残高の範囲内でのみ決済できるカードのことですが、デビットカードを利用する以上、口座に入っている現金の額だけが勝負でした。

ですが、日々ギリギリの生活をしていた私に、まとまった現金などあるわけもなく、仕入れ資金が中々増えないために、結局は輸入ビジネスの収入も伸び悩んでしまっていたのです。

なので、そんな私が輸入ビジネスで大きく稼ぐならば、それに応じた金額の現金を用意する必要がありました。

でも、日々、借金返済でお金は出ていきますし、輸入ビジネスで得た利益も借金返済に充てることになったり、予想外の出費でお金が出て行ったりなど、一向に資金は増えていきませんでした。

つまり、にっちもさっちも行かない状況だったのです。

せめて、輸入ビジネスの利益を全額、次の仕入れに回すことができれば、それを回転させながら資金を増やしていくこともできますが、生活費だけでなく、借金返済でもお金が出ていく私にとって、昼のアルバイト代だけではお金が足りず、結局は輸入ビジネスの利益を全額仕入れに回すことはできませんでした。

それでも何とか生活をギリギリまで切り詰め、アルバイトのシフトなどの増やし、徐々にではありますが、本当に瀬戸際の戦いの中で資金を増やしていきました。

そして苦労して30万円ほどの資金を貯めた頃でしょうか。

その資金を全額仕入れに突っ込み、一気に利益を上げてやろうと息巻いていたのですが。

私をさらなる悪夢が襲ったのでした・・・。

手持ち資金を全額仕入れに突っ込んだらアカウントがBANした・・・

勝負をかけて、なけなしの手持ち資金を全額仕入れに突っ込んだ私ですが・・・。

なんと、そのタイミングで、商品の販売に使用していたヤフオクのアカウントがBAN(凍結)してしまったのです。(アカウントがBANした理由はまた別の機会に。)

一気に血の気が引きました。

仕入れた商品を売りきって資金を回収しようと思っていた矢先のことだったらです。

絶望のふちから輸入ビジネスに夢を見出し、涙ぐましい努力でコツコツと資金を貯めてきて、これからやっと大きく飛躍できると思った矢先のことでした。

一発目の起業の失敗に引き続き、再起をかけた戦いでもこうなってしまったわけですから、これには心が折れました。

もう完全に諦めかけていました。

ところが、まだ努力できるとも思いました。

なぜならまだ「過労死」してなかったからです。

成功するか、過労死するか、その究極の2択に身を委ねるまでに覚悟を決めていた私は、ここで諦めるなど言語道断でした。

でも、仕入れ資金を回収できない以上、資金はゼロですし、完全に1からのスタートに戻ってしまいました。

そんな時・・・。

とある輸入ビジネスの手法を編み出すことになるのです。

とある輸入ビジネスの手法で復活を遂げる

資金ゼロ、借金まみれ、クレカも作れない。

そんな圧倒的に不利な状況の私は、他の人と同じことをしていても絶対に成功できないと考えました。

「資金量に左右されない稼ぎ方」を選ばない限り、私には未来がないと思ったのです。

そしてそんな折、ついに私は「とある輸入ビジネスの手法」を編み出すことに成功しました。

それをきっかけに、一気に状況が好転していったのです。

その経験から分かったのは、人間というものは、追い詰められると「眠っていたパワー」を発揮できるということです。

というのも私たち人間は、一説によると普段は脳力の3%程度しか使っていないと言われています。

脳科学を勉強して分かったのですが、人間の脳は本来はとてつもないパワーを秘めているのですが、もし100%の脳力を使ってしまうと、一瞬で”餓死”してしまうくらいのエネルギーを脳は消費するらしいのです。

そのため、普段は脳のパワーをセーブしているようです。

ところが、その時の私は、色んな意味で追い詰められていました。

借金に追われ首が回らない状態で、なおかつ手持ち資金も完全に失ってしまった状態であり、これが続くと、私の”生存”自体が危ぶまれるくらいの状況でした。

そういう状況に追い込まれた結果、一時的に脳のリミッターが外れたのではないかと思います。

100%とはいきませんが、普段3%しか使っていなかった脳の10%〜20%くらいはパワーを発揮してくれたような気がします。

そのおかげでまさに「ひらめき」が起こり、「資金量に左右されない稼ぎ方」を編み出すことに成功したのだと思います。

それからというもの、私の収入は嘘のように倍々ゲームで増えていきました。

依然として「資金がない」状態は変わらなかったですし、依然としてクレジットカードも作れませんでしたが、そんなハンデに一切関係なく、20万円、40万円、100万円と、順調に月収が伸びていったのでした。

それに”味”を占めた私は、朝から晩まで、アクセルを踏みっぱなしで、どんどん収入を伸ばすために行動し続けました。

そして・・・。

1年が経ち、月収は200万円を超える

とある輸入ビジネスの手法にひたすら打ち込み、気づけばそれから1年が経っていました。

その当時ですでに、私の元には、月に200万円を超える収入が入ってくるようになっていました。

売上ではなく、収入(利益)です。

そして、この時にはすでに、幼少期から刻まれていた『お金がなくて当然』というマインドからも解放され、お金とも健全に付き合えるようにもなっていました。

お客様から感謝されながら稼いでいるので心が満たされているのか、この文章を書いている今現在も、昔の私みたいに「意図的に残高を減らすためにお金を浪費する」なんてこともしなくなっています。

心理学的な観点によると、悪いことや後ろめたいことをして稼いだお金は、その罪悪感から逃れるかのように、そのお金を次々へと消費してしまうようになるようなのです。

消防士時代の過去、私がお金を湯水のように散財していたのはすでに書いた通りですが、そのお金を稼いだのは決して悪いことをしていたわけではなく、働いた対価としてもらっていた給料ではありましたが、ただし、「やりたくもない仕事」の対価としてもらっていただけに過ぎないお金だったので、そういう手段でお金を稼いでも、結局、人は幸せになれないのかもしれません。

私が今取り組んでいる「とある輸入ビジネスの手法」は、もちろん至極まっとうなビジネスですし、むしろお客さんの方から感謝のお便りが届くこともあります。

稼ぐ金額はどうあれ、「お客さんから感謝されて稼いだお金」というのは、心を満たしてくれるんだと実感しています。

私は「とある輸入ビジネスの手法」を編み出したことで、人生を大きく変えることができました。

お金に縁がない人生だと小さい頃から思い込み、他人からの見てくれを気にするようなコンプレックス丸出しで、おまけに起業で失敗して借金まみれになってしまったようなどうしようもない私でも、「とある輸入ビジネスの手法」をきっかけにしてそれなりの成功を収めることができたのです。

本当に人生、何があるか分かりませんね。

 

そして最後になりますが、今の時代はとても恵まれていると思います。

パソコン1台あれば、インターネットでビジネスができてしまう時代だからです。

もし私が”インターネット以前”の時代に生まれていたとしたら、一生、貧しいままで人生を過ごしていたかもしれません。

インターネットが発達する以前なんかは、お金を持ってない人は絶対に成功できない仕組みで資本主義社会が成り立っていたからです。

一昔前までの資本主義社会は、「資本家」と「労働者」がキッパリと区分けされていました。

そんな社会において裕福になれるのは資本家だけです。

具体的には、大きな工場や大きな企業などを作って、多数の労働者を働かせるだけの資本をもった「資本家」でない限り、インターネット発達前ではお金持ちになることはできなかったわけです。

でも、今は違います。

インターネットが発達した今、やる気と行動する覚悟さえあれば、お金がない人でも誰でも平等にお金を稼ぐチャンスが与えられます。

資本家にならなくても、いち労働者という身分からいくらでも這い上がっていくことができます。

ですから、あとは行動するかどうか、本当にそれだけだと思うんですね。

こんな私にも出来たんですから、その気さえあれば、あなたにも絶対にできます。

そのために何をすべきかなど、このブログで発信をしていければと思っていますので、よろしければ今後ともよろしくお願いいたします。

長々とここまで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

〜追伸〜

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